熱き想い

千葉工業高校時代の思い出

写真 土屋 孝夫(34M)
生まれたのは東京の大森であったが戦争が激しくなったため、父親のふるさと千葉県山武郡蓮沼村(現山武市蓮沼)に5歳の時に疎開した。小学校・中学校を同村で過ごしたが、将来の生活を思うとこの地では何も出来ないと思い、千葉工業高校に進学して技術を学び社会に出て働くことを選んだ。通学には家から総武本線松尾駅まで自転車で行き、当時の蒸気機関車で千葉駅へ、電車に乗り換え津田沼駅へと向かう毎日であった。
従って片道2時間強を要したので学校の授業が終わると、直ちに総武本線を利用していた4〜5人の同級生と帰宅することが第一で、クラブ活動や他の同級生との交わりもほとんどなかった状態であった。
学校の授業では、教科書授業より物を作成する実技の時間の方が楽しく、力が入ったように記憶している。その中でも田辺先生(故人)の製図の授業、それは毎年行う事であったようだが、その日の授業が終わると機械の(工作機旋盤の一部だったと記憶している)トレースをして明日提出せよとのことだ。例年全員ではないが徹夜で作成し提出するとのこと。負けてなるものかと自分も寝ずに取り組んだことは、現在でも忘れられない思い出での一つである。


楽しくもあり、大変だった定時制生活

写真
富田 博(44M)
昭和40年の春、中学校を卒業し昼間は習志野市の自動車部品工場で働き、夜は千葉工業高校定時制に通学を始めたのは、あれから、もう何年経つのだろうか、

この文章を書いていて改めて自分の”熱き時代”を思いだされる。
入学時、思い出された事は、国鉄津田沼駅から学校の門に入る時、たしか線路を跨いて校舎に入った覚えがある、 そうそう、その線路の脇に”大栄車両”と言う会社が在った。(同じクラスTN君が大栄車両に勤めていた)

学校生生活で一番の楽しみは、なんと言っても2時間目の授業が終わり"給食"の時間、冬など体が冷えている時の温かいシチュウ(ジャガイモが大きいのが入って居るとニッコリ)は、体が温まり、仕事の疲れも一遍に取れる給食であった。

そしてもう一つの楽しみのクラブ活動、私は「写真クラブ」に入り校内行事撮影、定時制通信制体育大会の撮影、休日には写真部員と共に房総半島の写真撮影会にも参加した。

そうそう、写真部でこんな事が在った。写真部の年間予算が少なく、写真を引き伸ばす機材を購入する為、個人で機材購入のローンを組んだ覚えが在る、ローンを組むことが初めてなので良い経験になった。(写真機機材屋さんからこんな事を言われた、学校の写真部でローンを組むなんてはじめてだよ)

その写真部の成果を発表する場所が、「千工祭」一年がかりで撮影、引き伸ばし、パネル張りした写真を、一部屋を貸切、部屋の中にボードを立て、写真部員の力作を、沢山貼った。

そんな順調な学校生活の中で、二年生の終わりごろに、先生から「こんな」話が在った。近いうち学校が、津田沼から千葉市生実に移転しますとの話が出てみんなが驚いた。

実際、学校移転したら職場の問題も在り、簡単な事では無く、話が本決まりになり同じクラスの中には移転と同時に他校に転向するクラスメイトも何人か出て来まして、結局卒業を共に出来たのは、写真のクラスメート31名でして、移転当時は大変でしたが、通学時間が津田沼と生実では倍以上の時間が掛かる、昼間の働いている会社を変わるか、いろいろと考え会社の上司の方に相談したら、もし卒業まで頑張るので在れば、会社の退社時間を早め、学校に間に合える様に退社時間を変更しても良いとの配慮があり、私も生実校舎で卒業を迎える事ができました。 今考えると「若い」と言う事は、何でも出来る可能性が在る素晴らしい時間だと今になって改めて思う次第です。

そして私も学校を卒業して、40年間務めた会社を定年退職出来たのも、仕事に学校に4年間務めた自信が在ったから成し遂げられた 事だと思います。「楽しくもあり、大変だった定時制生活」あの熱き青春をもう一度取り戻したい。


工業時代の思い出

写真
中村 軍治(32M)
私が千葉工業高校へ入学したのは終戦後9年目でした。
校門を入ると鉄道の線路があったり、貨車が並んでいたり、日本瓦の平屋倉庫の様で、とても校舎とは思えない学校であった。でも教育レベルは高そう、同級生が教壇に立って黒板に方程式をスラスラ解いて行くのを見て、田舎中学出の私がついて行けるか、不安に思った。

一番の楽しみにしていたのは機械実習で、鉄板を切ってシャベルを作ったことであった。手工具で切断し、ヤスリを掛け、曲げ、下塗り、仕上げ等、実習の時間が待ち遠しいくらいだった。(後に板金工場を任された時役に立った)でも鋳造作業直ぐに崩れ、中々鋳型が出来ず、俺は向いていないと悲観した。旋盤作業では、センター会わず、バイトの上に丸棒が乗ってしまい、削れるどころだは無かった。

本教科より専門科目に興味が有り、これで点数を稼いだ様であった。なにしろ殆ど復習をしていなかったし、試験の時は、一夜漬けの丸暗記であったから、科目が変更されパニくっていただろう。数学も暗記だったので、答えが合っていても途中が間違えていたこともあったが、不思議と山勘が当たる事が多かった。

自動車部は「いすず」の6輪トラックを運転したが、ハンドルを何回もも回さなければ曲がれず、変速のダブルクラッチも、身体が小さいので、座席の後ろに鞄を鋏、姿勢を整え らだから大変であった。

卒業後就職した会社は、学校へも機械設備を納めいた工作機メーカーであった。初めの頃の現場作業では、換歯車の計算に対数を使っていた、かけ算がプラスに、わり算がマイナスで計算出来、対数表から近似の整数に変換する方法であった。当時は、計算機も手動でハンドルをガラガラ回す物で、ルートを開くのは大変であった。仕事の性質上三角関数も良く使った。これも最初は対数で計算したが、電卓が出来て格段のスピードとなった。

社会生活で直面する課題や、人間関係では、漢文の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」や「四面楚歌」の意味を実感したり、機械の取り扱い説明書の翻訳、治具工具の設計製図等に、学校教育が大いに役に立った。

よく、千工の生徒が工場見学に来て、学校の勉強が社会でどれ程役立つのだろうかと質問されたが、私の場合100%役に立った言える。会社での生活40数年、たかが3年の高校時代を懐かしく思うのは何故なのか、同窓会の原点がこの中に存在するのだはと思うのである。

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